耶律兀欲(やりつこつよく)は遼朝の第3代皇帝。
初代皇帝である太祖耶律阿保機の嫡孫。932年に後唐の李従珂により殺害された東丹国王耶律倍(後に義宗と追諡)の子である。兀欲は、946年(会同9年)に2代皇帝太宗に従い、南下して後晋を攻める。そこで戦功をたて、947年(大同元年)2月、永康王に封じられた。後晋滅亡後も戦乱は収まらず、太宗は鎮圧にあたっていたが、4月に河北の欒城で病没した。
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兀欲は軍を率いて南京(現在の北京)を陥落させた後、前線の将軍らに擁立され、3代皇帝に即位するため、首都である上京(現在の内蒙古巴林左旗)へ向かう。一方、上京では、太祖の后であった蕭太后が、三男の耶律李胡を次の皇帝として擁立しようとしており、兀欲の即位に反対した。両者の軍は、潢河で対峙し、この戦いに敗れた蕭太后は兀欲の即位を承認した。
国内の反対派を抑えて皇帝に即位した兀欲は、9月に大同元年を天禄元年に改元し、耶律質屋を用い政府内の改革を推し進めた。耶律堯骨の時代の南面官と北面官を合併させ、南北の枢密院を成立、南王及び北王を廃し,後に枢密院にその機能を合わせた。
これらの改革によって遼は部族連合より中央集権体制へと転換し、それ以降の遼の発展の基礎を築いた。
しかし耶律兀欲は酒色に溺れ,狩猟を好み,晩年は奸臣を用いるなど政治は乱れた。951年9月,耶律兀欲は北漢を支援し後周を攻撃した帰途、祥古山(現在の内蒙古呼和浩特)において、太祖の弟、耶律安端の子である耶律察割によって暗殺された。